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短説 著 やすじ

 手紙                        

何かが近づき、何かが茂夫の周りから遠ざかって行く、そんな気配を感じながら、それが未だ何か判然としないでいた。

 秋の夕暮れ、座机に座り背に夕陽を受けながら久し振りに届いた便りを開く、佳奈子からだ。

 彼女の家とは、徐々に疎遠になっていったが、居所を変えていないので届いたのだった。

 何時建てられたか定かでない、この崩れ落ちそうな軒の庇のむこうから、間延びした夕映えが破れ襖を通して木々の揺らぎを其処ここに落とし、机上をも揺らした。  

佳奈子は、幼い時から茂夫を近所の誼みで兄と慕ってくれた。

十数年前の夏の終わりの台風で家と田んぼを流され、茂夫一家はやむなく町に移った。

それ以来、日々の糧に追われいつのまにか故郷が遠くなり、都会の灰汁にどっぷり浸かって、あの懐かしい田舎を忘れてしまっていた。

 文面は近況を伝えるだけであったが、行間から、過ぎ去った昔が大きく膨らんでゆく。

何時の間にか時が過ぎてゆき、秋の夕暮れは釣瓶落としと言うけれど、気付けば廻りは夕映えが消えて闇に包まれていた。

 幼かった佳奈子も高校生になっているはずだ、茂夫は大学ノートの間に彼女からの手紙を、そっとしまい込みながら想像を巡らせた。

柿も色づいていることだろう、裏山が紅葉して確かな冬の訪れづれを告げていることを想うだけで胸が熱くなった。

「帰りたい・・」心の内でそう呟いていた。

そっと暗闇に向かって、心を放つ茂夫がいた。遠ざかったのは故郷であり、近づいたのはそれへの去就だったのだ、それに気付けて胸の痞えが一つ取れた。



 韮[にら]の花    

 

新涼と共に裏庭の韮の種が飛び散っていたのか、
あちらこちらに見事に白い花を咲かせている。

その細やかさは、えも言われず心を和らげてくれ、
夏の暑さで
(しお)れかけた体に、その白さがやんわりと染入る。
 そよぎが、木々に当たり、紅葉しかけた枝葉を裏返している。
休日の昼下がり、縁側に座り庭の木々や草花に思いを馳せながら、
疲れを癒している佐代子がいた。
もう少しすれば、その韮の白い花も咲き終わり、小さな黒い種をつける。
それを採取して、来年は庭いっぱいに雪の庭にしたい。

一人住まいをしてから、一年余りが過ぎて少し楽しみも出来た。
韮の葉を食しながら時を待つ佐代子であった。

エッセイ

秋の夕暮れ

                                

秋の夕暮れ、僕の机の上に紙と鉛筆が置いてある。

時と共にゆっくり流れている風が開け放たれた窓から入り、音もなく机上の紙を揺らしている。

久しぶりに何かに誘われるように、椅子にすわった。

いつの間に時が経ったのか、台所から妻の呼ぶ声が、

「あなた、夕食にしましょう」

「あっ、わかった」

妻の言葉のお蔭で、その場を立ち去るきっかけが出来た。

外は夏の暑さが嘘のようにそよ風が吹いて少し紅くなった

木々の葉を揺らしていて夕闇が覆いかぶさろうとしていた。

毎日毎日、急かされるままに、市内や奈良まで遠出して仕事を得ている。

だからそこに、時の移ろいや自然の誘いを感じる余裕がない。

椅子から立ち上がろうとした時、ふと気付いた。

当たり前の何時もの夕飯の声こそ、家庭の幸せなのだと、

肌で感じることの喜びを忘れていたことを知った。

家族で囲む夕食こそ、全てなんだ。

決して豪華な夕食ではなかったけれど、妻の心のこもった
工夫のいっぱい盛られた食卓の一品一品が外の暗さに位して、いっそう明るく見える。

この情景こそ、素直に書きたかった気持ちなのだと、その夜しみじみ思った。



願い....


短説


  

        

       

 寿命

 

話に聞いてはいたが、それが現実に存在すると知ったのはつい最近のことだった。
私は案内人のチャンさんと、関空から北京に向かったのは、
まだ夏の暑さの残る十月初旬のことだった。
そこから、昨年開通したチベットまで青蔵鉄道に揺られながら二日間の旅が始まった。
ヂーデル機関車に牽引された客車が走り出して一時が過ぎたころ,
窓外に広がり出した農村の風景に、私は五十年前の日本を重ねていた。
程よく区画され黄色く色づいた田んぼを眺めていると疲れた私を和ましてくれた。
そして小さく影を引きながら農民が、鍬を使っている姿や両肩に
天秤棒を担ぎ両端に吊るされた桶を運んでいる人の姿が垣間見えた。
二日目の夕方、山肌が黒く覆われだしたころ、
車内の高度計は四千メートルを指していて目的地に近づいたことを教えてくれた。
長い旅は終わりをむかえ、機関車はチベットのラサ駅に静かに滑り込んで止まった。
そこからポタラ宮殿までは、車に揺られ小一時間余りで着いた。
空に向かって聳え立つ宮殿への階段を、息を凝らしながら上りきると大きな門が見えてきた。
僧の案内で宮殿の奥へ奥へと進んで行き、観光客が立ち入ることのない場所に案内された。
中国軍の侵攻でダライラマ十四世がいなくなった跡も、営営と弟子たちが天の啓示を受けて、
六十億の人間の履歴を一人一人記録してきたのだった。
しばらくして門外不出だった私のカードが提示され、案内人のチャンさんが、訳してくれた。
それによると、余命は後三十五年あって、九十二歳まで生きることになっていた。
もし貴方も将来を知りたければポタラ宮殿に行くと良いと思うよ。

小説

                        

  葦の人

               中野 靖邇

平成十五年の初めの夕暮れ、常念岳からの下り、次郎は謙吾に問いかけた。

それは謙吾の妻、君子の行方についてであった。

彼女が三年前に彼と別居したと聞いていたので、何の疑問も持たなかったが、

今日こうして、彼の口から真実の言葉を聞いて。

         ※

 二十数年の妻との生活は、今となっては遠い記憶の彼方に忘れかけていた。

それが、次郎の一言で呼び覚まされたのだ。

「君子さんは元気」

「えっ、あっ、元気だと思うよ」

謙吾の頭は突然の、問いにその場を繕うことに終始した。

 「今はどこに居るのかも知らないんだ」

「あっそう」

「君ら夫婦は、僕にとって理想だったからね」

「それだけに、君から別居の言葉が出たときには、非常にショックを受けたよ」

「その時から、一度聞いてみたかったんだ、なぜ別かれたのかい」

「別れたのじゃなくて、彼女からで出て行ったんだ」

この言葉は言いたくなかった、けれど次郎だから正直に打ち明けた。

「俺も仕事のことでむしゃくしゃしてた時で、つい彼女に当たってしまったのが主因だよ」

「それぞれ家庭にあるような事情だよ」

「離れていれば、気づかないことでも住めばいろいろとね」

初めはお互い遠慮もあるが、時が過ぎると、遠慮や恥じらいがなくなり、お互いの欠点を言い合うようになり、その境がなくなり、後は、沈黙と憎悪だけが胸に痛く残る。

 そこまで聞いた次郎は、謙吾に「そりゃあどこの家庭も同じだよ」

「お互い、知り尽くして、なお且つ許しあい妥協しあって生きていっているじゃないのかな」

 「結婚して二十五年になると、妻にとっては俺より息子のほうが大事なのさ」

「でもそれで良いのじゃないかな、世の中なんて、そんなもんさ」 

頷きながら謙吾は内心後悔もちらついた。

 夕闇が足元を照らし始めたころ、ようやく麓の権現宿まで辿り着いた。

二人は、山小屋で仮箔し明朝早く、縦走で氷原をこえて、権現の峰に向かう予定にしている。

 雪はそれ程でもないが、積雪は背丈ほどあった。

 宿の寝室は一部屋四人の二段ベッドで、布団は汗の臭いが染み付いていたが、外の寒さを考えるとありがたかった。

 早速食事の支度が出来たようで、宿の主の声がはずむ。

湯気があがっているなめこ汁が出てきた。

中身は山菜づくしで、一杯飲んだ途端胸がきゅーんと締め付けられたあとは縮こまっていたものが、一気に膨らんだような錯覚に捉われ、炊き立てのご飯を野沢菜漬けで一気に平らげた。

風呂もテレビも無いのでもっぱら、携帯のラジオが唯一の癒しだ。

ベッドに潜るとまもなく、昼の疲れも手伝ってか、泥のような眠りに就いた。

         ※

 あくる日の朝まだ峰が開けきらず東の空がぼーっと白けてきたとき、二人は寝床から起きだした。

主の作ってくれた、味噌汁をすすりながら、ご飯と鮭のあぶりをそそくさと戴き、登攀装備を整え、山小屋を出たが投宿者では一番遅い方だった。

 すぐに東の空から朝日が昇り、天候を心配していたが安心して、すぐにアイゼンを付け、ピッケルを氷に打ち込みながら、なめらかな勾配をおそるおそる登っていった。

 謙吾は先頭をとり、次郎は殿(しんがり)にまわったが、お互い大学時代から三十余年近いキャリアがものを言うのか、慣れた手つきで進んで行った。

 最後の一山を越えると今度は下りになる。

その時、謙吾の心に油断が宿ったのか、ピッケルの押さえが緩み斜めに滑り出した、ロープがはり次郎に体重が架かるが、すぐにハーケンを溝に打ち込み辛うじて、難を免れた。

「おーい謙吾、大丈夫か」

次郎の後方十メートルまで落下していた。

 今度は、次郎が先頭で最後の難関を突破し

無事二人は下りの行程を終え権現峰に到着した。

 何人かの先人が見えたが、着いた頃には、下山していて、下方に薄っすらと見え隠れしていた。

 山小屋の主が作ってくれた、おにぎりを頬張りながら、持参したお茶を一口飲んだ。

 「謙吾よ、上手いな」

「あっ、最高だね」

「こんな機会も中々ないからね」と謙吾が言うと、次郎の脳裏に思わず、先程のシーンが甦って来た。

 命拾いしただけに、余計に美味しかった。

「謙吾よ、下手したら食えなかったかもなあ」

 「そうだ、そうだよな、神様に感謝しなきゃなあ」

日差しは容赦なく二人を攻め続けていたが、三月のそれはあまりにも弱かった。

標高二千八百メートルの峰では、寒さを和らげるにしか、役だたないのだ。

一息つくと、記念撮影を終え、下山の準備に取り掛かった。

「おおい、向こうのほうに、人影が見えるで」

「何言ってるんだ、周りを見てみろよ誰もいないで」

「おいおい今からくるってもらったら困るよ」

謙吾の疲れが少し、幻聴を生み出しているのか、次郎は慎重に走路を選んで、一人がやっと通れる斜面を慎重に進んだ。

「山は魔物だからな」と自分に言い聞かせながら、次郎は後方の謙吾を見た。

謙吾は黙々と、次郎の後を付いて来ていたが、午前中と違い、目に見えて、無口になっていた。

「謙吾、大丈夫か」

一時おいて、「心配するな、俺は這ってでも、ついてゆくから」

その言葉に励まされながら、下口のバス停まで下りてきたときには、周りはとっぷり暮れ最終は出た後だった。

明日の朝一番まで野宿になった。

テントを二つ張り、横の小川から酌んだ水をコッフェルに移すと、携帯ガスコンロで湯を沸かし、即席麺に湯を注いだ。

この時期の水は雪解け水で、人里離れていることもあって、飲料水には何の不都合もなかった。

都会の水道水よりよっぽどまっしだと次郎も謙吾も思っていた。

地面には残雪が道路の両端に残ってはいたが、山上と違って、春の気配を感じられた。

バス停の軒に建てられたテントの出口部分を待合室に向けているので、その部分は上からの降雪や降雨にさらされることがないだけ、ありがたかった。

また寂しく、蛍光灯がひとつ付いていて、闇から僕たちを守ってくれていた。

山の夜は早い、夕方七時には、辺りは暗闇に包まれた。

二つのテントのなかで、微かに洩れてくる蛍光灯の明かりを頼りに、会話が始まった。

「謙吾よ、明後日からまた、部長に怒られながら、顧客の元気伺いのはじまりだなあ」

「こんなところで、そんな話はないだろ」

「じゃ、どんな話があるって言うんだ」

「俺はなあ、今まで明日のことなんてあまり考えたことがなかったけど、この年になると、さすが、つくづく考えるで」

「そう言われれば、そうだなあ」

「良いことなんか、これぽっちもなかったじゃないか」

「美味しいところは、社長と部長に吸われ、客の苦情の処理が、俺らの天命とばかりに押し付けられて今日まできたのさ」

そこまで言うと、次郎は、ひとつ思い当たることがあった。

同期の長谷川が、われわれ仲間で一番出世したが、結局最後は支店の売り上げから細工して得た交際費を会社のために使ったのだが、横領と見なされ会社を去った。

それに較べれば出世はしなかったが、販促営業のあと資料編纂室から、お各様相談室で後二年で定年を迎える、俺たちのほうが考えようによっては、まともかもしれない、なんて考えを吐露しながら、今日の疲れも手伝って何時しか眠りに就いた。

        ※

「ブッブーなあんだ、あっバスか、早く起きようぜ」

朝一番のバスが権現峰行きの登山客を乗せて、やってきた。

テントを片付けバスに乗車、すぐに下口バス停から藤沢駅に向けてバスは走りだした。

空は曇っていて周囲は鈍色に覆われていたが、疲れとともに完全踏破できたことに満足しつつ、背もたれに頭をもたげた。

窓外に見える針葉樹の木々の間から、町の建物が垣間見えてきた。

二人は口をきくこともなく、バスの揺れに身をまかせ、うとうとして、今度眼を開けてみた時には、通勤の人で車内は満員で、まもなく藤沢駅に到着した。

駅から各駅停車の始発に乗り小一時間で、我が家のある三戸瀬駅で下車し、次郎と別れた彼は二つ先の赤土駅だ。

我が家を三日空けただけであったが、懐かしさが蘇り、不思議な感情に囚われたが、山での滑落があったからだと思った。

謙吾は、背中のリュックを置くと、床の間の寝具に横たわり、先日の次郎の言葉を噛み締めた。

何時かは、事の重大さを悟らねばと思うが、今はその勇気がないと考えつつ、記憶が薄れ気づくと、皓々と太陽がタバコの脂がこびりついた窓ガラスの隙間から、万寝床を照らしている、少し眠っていたのだった。

あまりの眩しさに眼を少しずつ開けて時計を見ると、お昼をまわっていた。

急にだるさと共に、空腹におそわれ、台所の冷蔵庫を開け物色するが、鰯の缶詰が奥の隅に遠慮がちに残っているのを見つけ、冷凍室にフリーズしておいた残りご飯を、オーブンで温めなんとか、昼飯にありつけた。

先日友人から貰った、お茶の葉を急須にいれて湯を注ぎコップにお茶を入れると、ほのかな香りと、喉を通るときの一服はなんとも言えない心地よさで、疲れを癒してくれた。

一息ついて、シャワーを浴びてから、近くのスーパーに行き、夕食の材料を買うが、やもめ暮らしも年季が入り、友人といえば次郎だけなので、後は何の不都合もなかった、ある一点を除いて。

テレビを見ながら明日からの出勤に備えて、ワイシャツにアイロンをかける。

押入れに突っ込まれたシャツが十枚あまりあり、一応洗濯は出来てゆっくりとした時がなく、今日まで置いてあったが、やっと仕上げが出来た。

後は、(すす)けて(やに)に煙る窓の掃除をしなければと思うが、年齢のこともあり、今日のことは、明日にまわすようにして無理はしない、誰もこないし怒られることがないからだ。

そうこうしているうちに、日が暮れ、忘れていた日記の記載を始めた。

この習慣だけは欠かしたことはない、独り者の悲しさ話題がないので、新聞やテレビの報道からヒントを得て書いている。

世間は相変わらず景気が悪く、陰湿な犯罪やニユースにならい自殺が多いような印象受けた。

登山に行くニー三日前にも、三戸瀬駅近くの踏み切りで中年サラリーマンが自殺したらしいとの噂が聞こえてきていた。

鬱々しながら、書き終えると「さあ、明日からがんばるぞ」と心の中で呟いた。

パジャマに着替え万年床に入ると、何故か目がさえて、寝ようとしたがなかなか寝付けない、それもそのはず、久しぶりに昼寝ができたからだ。

        ※

「もしもし、エスミチョコの会社ですか」

「はいはい、こちら相談室ですがどうされましたか」

「実は昨日買いましたおたくのチョコを食べておりましたら、鋳物の破片が出てきたのですが」

「えっ、それは申し訳ございません」

「お怪我ございませんでしたか」

「はい、少し血が出ましたが大丈夫です」

「申しわけございませんが、ご住所とお電話番号お願いします」

「何でそう言うこと教えんなあかんのですか」

「いえいえ、こちらからご挨拶とお見舞いをさせて頂きたいのですが」

「そこまで言わなあかんの、ええわ、さいなら」

「あの、お客さま、プウープウー」

「ああ切れてしもうた」

「なんや、迷惑電話かい」

「いい加減にしてほしいなあ次郎」

「本当やねえ」

こうして、相談室の午前中の苦情は問い合わせ五件にいやがらせ一件で終わった。

束の間の休憩の後、午後の仕事が始まった。

午後からは三時過ぎになると苦情が増える、これはどこの会社も同じらしい。 

その原因は、主婦が昼食を取り、ワイドショウをみて少し昼寝、そして夕方買い物に行くまでの、魔の一時間が主因らしい。

昔と違って連続ドラマやワイドショウが放送されるようになって、「主婦の不満や苦情が解消されたのかも知れない」と思いながら待機していると、警察のほうからの電話で、スーパー平河店のお菓子売り場で、変色した当社のチョコがあり、警察の鑑識で調べたところ、どうやら毒入りではなかったが、「長期在庫の疑いあり」とのことであった。

早速その旨を、販売担当の、営業第三課に連絡説明しスーパー担当者が、処置するように指示、記録簿に記載し日課は終わった。

        ※

今日はあまり疲れもないので、次郎を誘ってみようと思ったが、家庭持ちには悪いので、一人で途中の屋台に入り一杯引っかけて帰宅の途についた。

電車の中は夕方六時過ぎでもあまり混んでいなかった。

三戸瀬駅に着くと、前のスーパーに寄るのが習慣になっていて、初めの頃の三年前は違和感があった。

それが今では、普通になり、買い物も以前と比べればだいぶ無駄なものや、必要量以上に買わなくなってきている。

だから、主婦以上に冷蔵庫の野菜室もすっきりしていて、以前の生活の時とくらべれば中身は大違いで、腐らすこともなくなった。

両手にスーパの袋と小物いれを引っさげて帰宅すると、留守録に、証券会社の投資案内と石屋の墓石案内のお知らせが入っていた。

「いったいどこから情報を手に入れたんや、わしゃ金持ちでもないし、まだ死にたくもないのに、まだ準備早いというもんや」と独り言を言いながら、夕飯の支度に取り掛かった。 

今日は鯖の煮つけと、冷やっこをポン酢で、ご飯はちょっと贅沢にササニシキでいただく。

テレビでニュースとクイズ番組を見ながら、ビールを飲むと、酔いと共に睡魔が体を包む、万年床に座布団を二枚置きその上に枕を置いて右手で枕を抱きかかえるように右横向きになりまどろんだ。

毎日のことながら、一眠りして台所を片付け、風呂に入るが、その間に洗濯機を回し、今脱いだ物も全部放り込み、カップ半分の洗剤をいれて後は自動で風呂から上がる頃に出来上がりとなる。

パジャマ姿でベランダにある物干しに今洗濯したばかりの下着を干したが、ここはマンションの三階のこともあって、日が良く当たり乾きも早い、お蔭で万寝床も湿気せずに済んでいる。

ふと、空を見上げると、遠くに新月も手伝って綺麗な星の瞬きがあった。

洗濯かごを洗濯機の横に置くと、付けっぱなしのテレビがニュース番組をしていて、今日の株式市場の動向を解説していたが、定年間近の今となっては、会社がもちさえすれば、無事定年になる、そして退職金と年金で細々ながら、老後をと計画している。

世間は、まだまだ景気が悪く、バブルがはじけてから十六年経過した今でも大変な状況だが、金融機関だけは回復した。

中小企業は今だ不況で、この不況のしわ寄せが後で当社にも来るかもしれないと考えると気が重いが、これからのことは、いまの謙吾には予測もつかなかった。

電気を消し、枕もとの文庫本を読みながら眠りについた。

         ※

「リーン・リーン」

「もしもし米山ですが」

「あの、川本さんですか」

「いえ違いますよ、はあそうですか、ガチャンー」

早朝の電話は間違いであったが、後十分と思もっていたのでこの睡眠不足は堪える。

「ええ加減にしいや」と思いながら、トイレに直行、小窓から見える空は、まだどんよりとした、鈍色だった。

「間違い電話も昔ほど多くないな」と思いながら、台所というか炊事場でコーヒーを沸かし、トースターで食パン一切れ焼いてバターとりんごジャムを付けさっさと口へ流し込む。

そそくさと服に着替え食事を済ますと、歯磨して家を出たが、雨が降りそうなので傘を取りに戻り、また出発一日がはじまった。

駅までは五分の近さなので、通勤は苦にならないが、車内の込みようはいつも辟易する、社に到着すると守衛さんが「ご苦労様です」と挨拶をしてくれるので元気が出る。

毎日の日課だが室内の掃除を済ませ、禁煙運動で立場が悪くなった、喫煙族の集まる五階の喫煙室に行くと、次郎が何か考え事をしているかのように、頭をかかえて座っていた。

「よっ、お早う、どうした」

「いや、お早う、困まったよ」

「息子が大学に入ったのは良いが、下宿することになって家賃が大変なんだあ」

「ええっ、地元に行くのと違ったの」

「ああっ、地元の国立より、東京の私立大学のほうがレベルが高いと言い出してね、俺もそこまで言われたら、やめとけとも言えず、金の算段を考えていたのだよ」

「キンコンカーン」

始業の鐘がなり、そこで話は終わったが、相談室でも晴れない気持ちの次郎だった。 

そこへ部長の東尾が飛び込んできた、何事かと顔を見るとちょっと困惑した顔をしてこちらを向いて、「すまん、製造部の方から連絡があり、工程の機械の歯車が少しかけて、ひょっとしたら商品に紛れ込んだかも知れない」とのことだった。

「あっ、そうだ、昨日そのような電話があったがまさか、いたずらと思っていたが本当だったのか」

「でも、対応は間違いなかった」と自答しながら、昨日のことを部長に報告、何もなければ良いがと思っていると、次郎が、謙吾に「成るようにしかならないから、その時に考えようで」といってくれ、何か気持が和らいだ。

その後、その件に関して何の苦情もなく済んだが、毎日品質に関する苦情は絶えなかった。

そんな中でも女性からの質問の第一は肥満との関係であった。

「お客様、当社のチョコでは肥満にはなりませんよ、ご安心ください」

「えっ、でも少しこの頃太り気味で、あっそうだ、エスチョコ食べてからやと思い出したもので」

「お客様、考えて下さい、チョコの大きさとお客様の体重を、お考えいただければ、何万分の一ですので、少々食べても大丈夫ですよ」

「はっ、まあそう言われればそうですね、済みません、周りの者がチョコのせいだと言うもので、さようなら」

「いつものことながら、謙吾の対応は、そつがなくていいよ」と次郎が感心すると、事務員の久子と真由美も頷いた。

夕方帰宅寸前に、総務から、社長直々キャンペーンをやった結果、そのアンケート応募葉書がダンボールに入れられて五箱配達されてきた。

 大手の場合、広告社に依頼しデーターの集計となるが悲しいかな、その経費が無いので、苦情処理の一貫として、四人で手分けしてデーターの集計となるが、「謙吾よ、明日残業で仕上げようぜ、くーちゃん(久子)もまーちゃん(真由美)もいいかな」次郎の一声で明日の残業は決まった。

確かにエスミチョコは先代の社長がヨーロッパに行き勉強してきて作った会社なので、小さいが味が世間に知られていて、我々もやりがいがある。

高校を出てここに入社した頃は、出張の連続で、日本全国の販売店への促進に回ったが、今は営業所も増えて、出張もなくなった。

「あの頃は無我夢中だった、その経験を生かすといえば聞こえが良いが、お客様相談室は大事な会社の顔でもある職場なのだが、暗いイメージがつきまとうような気がしてならない」と思いながら家路に急ぐ、例によって駅前のスーパーに寄ったが食欲不振で即席で済ませることにして、焼き豚と冷麺を買い帰宅する。

連休登山の影響が三日も経って出てくるとは情けない。

夕食を早々に済ますと、入浴しテレビを見ながら、新聞を読んでいつしか眠りについた。

久しぶりの早い就寝からか夜中三時過ぎに目が覚めた、静まり返ったなかに遠くでパトカーのサイレンだけが空しく鳴り響いていた、小用をすまし寝床にもぐったが、久しぶりに君子のことを考えけれど、それ以上何の解決方法も見つからず、寝てしまった。

        ※

くーちゃんの働きぶりは周りのものを明るくさせてくれた。

言わなければしないのと違って積極的に何でも良く気づいてくれて助かった。

 まーちゃんは、おっとりしていて二番手で、女性二人が張り合うことがないので、和やかな雰囲気で助かる。

次郎のリーダーシップで作業が始まった。

葉書きからアンケートの転記、書いても書いてもなかなか仕事が終わらなかったが、なかでも住所の転記が一番手間取った。

コンピューターの入力も段々慣れて最後には、手が自然に動いていた。

最後に集計した結果五万三千二百二十三通だった。

内容は概ね好意的な意見が大半だったが、他社からのものと思われる、敵意に満ちた批判のアンケートもあった。

それだけ、わが社のチョコの味が良いのかと逆に、嬉しく思った。

夕方七時過ぎに仕事が終わり、社長室に届ける書類を作り、総務にアンケートのお礼の名簿をフロッピーにして渡す用意をして帰宅の徒についた。

考えてみれば、三日は掛かると思っていたが、一日で出来たのが今となっては凄いことだと思った、何につけても四人が一丸となって目的に向かって進むこのようなことが、今までなかったので、ある面では、この手法が大事だなと思った。

アンケート葉書から全国に多くの愛好者がおられ、無意識にその日を過ごしていたが、もっと真剣に取り組みたいと思うようになった。

昔、北海道に仕事で行ったとき、この地に有名なチョコがあって、旅行者の土産に多く買われていたが、その地で努力されたものが、宣伝しなくても、土産という形で全国の人々に知られ、今では全国の土産の中で日本一の座を博しているらしい。

わが社のエスミチョコもそうなる様に、いいアイデアの提案を社長にしていこうと思った。

これも、社長のアンケートの提案のお陰と思う。

全社員総勢二百三十人余りの知恵をもってすれば、また良い考えが浮かんでくるのではと思った。

次郎の誘いを断って、今日は久し振りに、百貨店に訪れると、昔と違って今は夜遅く八時までやっているので、前からほしいと思っていたリトグラフを三階のギャラリまで見に行った。

前々から購入したいと思っていたのはF氏の絵だ。

価格は二十二万五千円するので諦めていたが、この頃パチンコをやめて貯めてあった資金でようやく買える目処が付き今日はやっと下見となった。

「いらっしゃいませ、ごゆっくりご観覧下さいませ」

「あっ、こんにちは」

「こちらは、F氏の作で幻想的で夢の世界にいざなうような錯覚におちいる 見事な作品でございます」

「知っているというのに」と思いながら店員の説明を聞いていたが、彼女は必死で売り込みにかかってきた。

「確かもう一人美人と言うより可愛い感じの店員さんがいたはずや」と思っていると、向うの方から、ハンカチを手に帰ってきた。

「いらっしゃいませ」

「お客様、この絵お気に入りですね、以前に一度ご来店の時お見かけしました時も確か、このF氏の絵をご覧でしたね」

すごい、店員はこうでなくてはと心の中で思っていた。

「はあ、よくご存知で」

「実は今迷っているのですよ、今度の休みに来て、求めようかそれとも今日買って帰ろうかとね」

「有難う御座います、お客様、出来れば休みのほうが、お持ち帰りの時、電車が混んでいので良いかと思いますがいかがでしょう」

「ほう、なるほど」

「ではそうします」

「わかりました、お客様、済みませんがお名前をお聞かせ下さいませ」

「はい、米山です」

「米山様、この絵をお取り置きしておきますので、ご安心下さいませ」

「では、よろしくお願いします、日曜日に寄せていただきます」

久しぶりに、謙吾の心に清清しい風が吹き抜けたような気がした。

ただ、そのためには、部屋の掃除をしなければと思う心の変化に我ながら驚いた。

少しずつ溜まった、三年間のごみを、帰宅後ごみ袋に詰める謙吾がいた。

部屋の周囲と、窓ガラスの掃除を三日かけて行ない少しは明るい部屋になりつつあった。

また、壁に貼ってある、赤茶けたカレンダーや新聞の切れ端をはずし、壁をふいたら、タバコの脂ですぐにタオルが黄色くなった。

バケツに水を入れ、タオルに台所の洗剤を付けて壁を拭いてみたら、地の色が出てきて、私が入居する前の人もほったらかしだったのだと新発見した。

それは茶色い色が壁の色と思っていたが本来は白かったからである。

全部とは行かないが、なんとなく綺麗になった。

「これなら、リトグラフも喜んでくれるかなあ」と思いながら日にちが過ぎ約束の日曜日が来た。

久し振りに休日の早起きとなったが、どこか心が浮き浮きしていて、誰に見咎められることもないので、独身の利点と今日は特に感じる。

先週銀行から下ろしてあった二十五万円を財布に入れ、駅に向かった。

めったに掛からない携帯であったけれど、電源を切っておいた。

三戸瀬駅から十分で花口駅に着いた、何時もなら通過駅だが、今日はこの駅上にある二年前に出来たショッピングモールに併設する三栄百貨店の三階にある、芳野ギャラリーが目的の所だ。

何気なく行くのと、永年の恋人を手にする喜びとでは何故こんなに感情の高ぶりがあるのかとつくづく感じながら一歩ずつ店に近づいていった。

いました、美人、いや可愛いい店員さんが。

「こんにちは」

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

「米山様、少々お待ちくださいませ、この間の絵をお持ちいたしますので」

その間、ギャラリーに掲げられた絵を見ながら、「お金があれば全部買いたいくらいの衝動に駆られたが、その前に掲げる家があれでは順番が違うぞ」とも思った。

そうこうしていたら、彼女が重そうに、絵を持ってきてくれた。

額縁に入っていて表装も綺麗だ。

「米山様これでよろしいでしょうか、鑑定書もお付けしております」

「それと、コピーになりますが、一枚サービスさせていただきます、お小さいですが、お玄関にでもお掛け下さいませ」

「ありがとう、では、代金の二十二万五千円です見て下さい」

「ありがとうございます、丁度お預かりいたしました、ただ今領収書をお持ちいたしますので少々お待ち下さいませ」

彼女が去ると、リトの重みを手から肩にかけて感じた。

「お待ちどうさまです、有難う御座いました、今後ともご愛顧よろしくお願い致します、お気を付けてお帰り下さいませ」

「ありがとう」

私は、天にも昇る心持でその場を後にした。

それから、どこをどう帰った分からないうちに、三戸瀬駅から我が家に足を向けていた。

家に着くと、空腹なのも忘れ、早速昨日こしらえた、台座の上に箱から取り出した絵を飾ってみた。

永年の夢が現実になった瞬間であった。

やはり本物が良い、これからこの絵でどれだけ疲れが癒されることかと思いながら、我に返ると、急にお腹がすいてきた、それもそのはず、丁度午後一時を回っていた。

冷蔵庫の中を見渡し、瓶にはいった海苔の佃煮と、冷奴の残りをおかずにして、昨夜炊いておいたご飯で、空腹を満たした。

お膳の前に座り、壁の絵を眺めていると、「何故この絵に惹かれるのか」と考えながらお茶を飲んだ。

これから毎日のことだから、今日慌てて考える必要もなかったが、落ち着かないまま時間が過ぎた。

        ※

「次郎さん、社長から電話だよ」

「えっ、昨日ちゃんと報告したのになあ」

「はい、畠山です、何か御用でしょうか」

「いや、アンケートの件のお礼を言おうと思って」

「皆によろしく伝えてよ」

「米山君の意見もこれから商品開発に使うので、協力お願いするよ」

「はっ、わかりました、伝えます、私たちも最後まで販売のアイデアを出させていただきます。」

「ではまた」

「はあ、終わったで」

「謙吾、社長はえらく喜んでくれてたで」

「くーちゃんも、まーちゃんにも宜しく言ってたよ」

「これで、少しは相談室の重要性もわかってもらえたかな」

朝から社長の電話だ、下済み生活四十年の中で一番良い日だったかもしれなかった。

皆に喋るほどのこともないが、謙吾の心の中では「これも、リトのお陰かも」と心の中で呟いた。

総務のほうからも、仕事が丁寧なので、後の処理がしやすいと御礼の連絡があった。

エスミチョコの売り上げは、一に品質だが、お客様のニーズが時代と共に変わるので、昔は辛かったけれども、今は甘くなっている、たまには、昔の味も懐かしい。

そんなことを思いながら、昼食時、次郎を誘って、近くの飯屋に行くが、相変わらずどこも混んでいた。

そそくさと食事を済ませ、近くのベンチで昨日買ったリトグラフのことを話ししたら、「えっ、買ったの、妻が大好きなんだ、一度見せてやってくれない」と言う話になった。

「いいよ、君の都合の良いとき来てくれたらいいから」

幸い絵のお陰で部屋も綺麗になったので、少しは和んだ部屋で来客は今まで一度もなかったから、絵の力は凄いと感心した。

そう言えば、次郎の奥さんは美大出で、広告会社にいる頃、エスミチョコのデザインを依頼した会社で次郎と商談したことから、発展して恋愛結婚に至ったことを、今思い出した。

その頃僕はまだ独身で、日本全国を先輩と一緒に販促活動していたが、彼の結婚式には同期として列席するために、四国の松山から、電車を乗り継いで東京まで帰ったのを覚えている。

それから、二十数年の月日が流れ、今では、彼の息子が大学で、私は妻と別居、子供はできなかった、また出来ていれば違う人生もあったかも、「まあーいいさ」。

そんなことを考えながら机に向かって書類を書いていると、お客様からの問い合わせがあり、これがまた変わった質問で、内容はなぜエスミチョコは、バレンタインのチョコを作らないのかとのことだった。

即答を避けて、住所をお伺いし、後日封書で回答することにした。

これは、くーちゃんに聞いてみたところ、昔と違って今は一品物が好まれ、ケーキ店での自家製が好まれ手間が掛かるので、わが社には馴染まないのではと言うことだった。

確かに、義理チョコもあるが、本命チョコは手作りに近い、一品ものが喜ばれる時代らしい、これは一理あると思う、開発部に聞いてみたが、同じような意見だった。

結果をワープロにして、当社の販促用チョコを入れて、顧客宛に質問の回答と共に送った。

そのころ次郎は、先日データにした顧客に送る挨拶文を総務から依頼され、いやとも言えず、考えあぐねていた。

エスミチョコにとって初めての大々的キャンペーンだったが、反響の大きさが想像もつかなかったので、顧客の大切さを改めて痛切に感じたことを書こうと思っていた。

相談室から見える会社の周りに植樹されている、花瑞樹の木に葉が一杯青々と繁って、時々水を欲しがっているのか、昼からだれていた。

「謙吾、今度の日曜日の予定はどうかな」

「今、妻から電話があってさ、早速見たいそうだ」

「ああ、いいよ」

「時間を決めてよ」

「それなら十一時ごろでどう」

「久しぶりで、ご馳走するから遠慮しないで二人で来てくれたらいいよ」

「わかった、遠慮なく行かせてもらうよ」

謙吾は、近くの寿司屋から出前を取ることにした。

妻がいるときは、考えたこともないことを考えなくてはいけないのが、少し大変だが、今はこの現状に慣れてしまったので、顧客相手の仕事をしながら、いざお客と対になると、面倒がる習性があるのが良くわかった。

日が経つのが早いもので、約束の日が来た。

三戸瀬駅に十一時に着く予定になっているので、迎えに出た、今日はいつもと違ってあいにくの曇り空だったが、雨の降る様子はなかった。

駅に行くと、いそいそと出かけてゆく家族連れや恋人同士のカップルで待合室が混んでいた。

まもなく電車が到着し畠山夫婦が降りてきた。

「こんにちは、今日は厚かましく申し訳ないです」

「いえいえ、結婚以来ですね」

「気を使わないで下さい」

「すぐそこですから」

そう言えば、次郎にも家に来てもらったことがなかった。

考えてみれば、友人と思いながら、世間の言うような付き合いをしたことがなかったのだ。

ただ会社で、同僚としての会話や付き合いに終始していただけなのだった。

「さあさあ、遠慮せずに上がってよ」

「独り者のぼろ屋だけど、少し掃除したからね」

「奥さん、これですわ、あの著名な先生のリトグラフですよ」

「まあ、やはり本で見るのと違って本物は良いですね」

「あなた、私とこも一つ何とかならないかしら」

「バカ言うじゃないよ、今は息子の学費で精一杯じゃないか」

「それもそうだったわね」

「でも、眼の法要させてもらったわ」

そんな話をしているところに、近所の松寿司から出前が届いた。

「毎度、ありがとうございます、盛り合わせ三人前と赤出し三つです、これでよろしいですか」

「ありがとう、空き容器は玄関に出して置きます」

「次郎の奥さんがお茶を入れてくれ、三人で絵を眺めながらの昼食となった」

すしの後の赤出しは、鯛の粗が入っていて美味だった、さすがこの辺では評判が良いだけのことはあった。

「奥さんは、今は絵を描かれていないの」

「はあ、貧乏暇なしで、せっせとバイトで忙しいので、時間がないの」

「畠山君のところも今は大変だけれど数年したら子供さんも一人立ちし、余裕が出てくるのと違うか」

「それはそうなんやけど、一旦退職になるから、給料が落ちるし、嘱託で採用して貰っても、年金がもらえるのは六十五歳だし、食べて行くのがやっとじゃないのかな」

「世の中、中々うまくいかないなあ」

「家を建てて、銀行ローンを払い終わり、子供を育てて大学を卒業させたら、人生大半終わりさ」

「そりゃ、自分の人生も送りたいけれど、世の中はそんな甘いものじゃないのかも知れないな」

「若い時の失敗は取り戻せると言うけれど、積もり積もれば、もう自分の手で、どうにも出来ないこともあるね」

「子育てと、仕事での社会貢献をしながら老いてゆくが、これでいいのかな」

「次郎、えらく悟っているな」

「いや、そうとでも思わないとやりきれないからさ」

「僕の父が良い見本さ」、と次郎が言うと、

「そうだよな、俺の父も今は兄宅にいるけど、昔の人で子供や家庭のために一生懸命働いて自分がなかった」

「ただ僕らと違って、年金もいいし、金を持っているから、体はぼろぼろで脚も弱っているけど、戦争をくぐって来た人生の強さがあるし、口だけは衰えてないものなあ」

「そうだね、昔の人は強いなあ、今は子供にも甘いし、言うことを聞いてあげるけれど、俺なんか小さい時から、ほったらかしで、進学も就職も自分で決めたから、両親の意見など何もなかったなあ」

「それでも何とかここまできた、ただ必要なお金は、母が用意してくれたように思ったけれど、もう昔のことで忘れちまったよ」

「昔の人は、我々企業戦士と言われた世代と似て、会社一辺倒でやってきたけど、昔の人より僕らの方が、子供の意見や会話をするようになったと思うよ」

「今は父とも話すけれど、昔は話した記憶がないなあ」

「毎日ほど顔を会わせ会話していた母の記憶が、なぜか薄らいでいるのはどうしてなのかなあ」

「たまの出会いのほうが、記憶に残るのかもなあ」

「母が昨年亡くなっても、そう悲しく思はないのは、空気みたいな存在だったからかだったのかなあ」。

「夫婦二人が、健康でいれば、長生きもいいけど、患ったまま生きたくないね」

そんなことを話しているうちに時間が経ち三時過ぎに、夫婦は帰っていったが、心の中になぜか空しさが残った。

一人でいることの満足感を味わい、リトを見ながら悦にいっていた自分が、それ以上の世界を知ってしまったような、錯覚に陥ってしまったのかも知れない。

孤独感がまた、楽しいと思っていたが、それは俺の強がりだったのか、それともその時はそう思って過ごしてきたことが、文化交流というか、ほかの世界を知ってしまった一時的な、感情の起伏なのかは、結果は後日になるが当分は考えることになるだろう。

        ※

山間の道を次郎と謙吾は思いリュックを背負い、いつ着くとも知れないが、ただ黙々と歩いていた。

それは、今まで歩んできた人生のようなものだった。

眼には見えないが、いつか到達するという思いだけで進む熱意それだけが唯一の支えとなって。

しまいには疲れ果て言葉を交わすのさえ億劫になった、それでも足だけは一歩一歩と前への歩みをとめなかった。

彼方に薄暗く家の軒が見えてきた。

万年雪の中にぽつんと佇む山小屋は、いとおしく見えた、ここは無人で山男の休憩場所になっていて、何時でも誰でも利用できるようになっている。

八時間走破して、やっと吹雪の中、道を間違えずにこれたことに感謝しつつ、先ずは、休憩をとることにした。

板張りの床は、湿気で所々、抜け落ちそうになっていたが、これも時々来て換気すれば痛みも変わっていただろう、などと心で思いながら、シュラフを広げ、寝袋に体を横たえながら、体力の回復を待ち、夕飯の支度に取り掛かった。

次郎は、残業の疲れを残しながらの出発であったが何とか難関を乗り切りここまできた。

明日の縦走による尾根越えは、徐々に下りルートになるので、疲れは余り増すことはない。

二人は、熱いコーヒーをボトルから取り出し残りを二人で飲んだのが良かったのか、次第に会話が弾んだ。

レトルト食品ばかりだが、腹が減っていたので、一気に食べてしまった。

食事の後の、デザートとはいかないけれど、持参したバナナを食べた、これはひじょうに美味しくて至福の一時だった。

いつも、満腹の中にいて、お腹が空くということがないので、ただなんとなく、時間がきたから食べている、自分に気づくことがある。

そんな状態では満腹感など程遠いし、体のためにも良いことではなかった、今日の踏破は、そのことから較べれば貴重な体験であった。

 満腹感と共に、寝袋に入ると、すぐに眠りに就いた。

遠くビルの上を飛んでる自分がいた、谷間を走る自動車がおもちゃのように見えた。

早足で建物に消える人や、交差点で信号の変わるのを、今か今かと待つ人が鮮明に脳裏を横切った。

はっとして眼が覚めると、山小屋は以前雪の中にあった。

横を見ると、次郎は蓑虫のように寝袋に頭までもぐりこんでいて、顔がなかった。

窓は冬の間木板でふさいでいるので、隙間から入る明かりは少なかった。

器用な寝方もあるものだと思いながら、また寝ようとしたが、先ほどの夢のように空中を飛べたら行ってみたいところがあった、それは中国にある万里の長城だ、衛星から写る唯一の人工建造物だからだ。

世界中を、浮遊できたらまた違う人生もあるかも知れない。

うつつとしたら、朝日が扉の間から顔を出した。

次郎を起こし、携帯コンロで湯を沸かしコーヒーを入れ、葡萄入りのパンを二人でかじると、冷えた体に少し正気が戻ってきた。

外は吹雪きもなく、無音の世界だったが、鈴の音だけが回りに響いた。

二人は鈴を腰に付け熊よけにしていたからだ。

徐々に下山して行くと、木々から新芽が出ていて、春を告げていた。

尾根の頂き付近を見上げると、雪片が陽射しを浴びて眩しく輝いていた。

リュックの荷物と疲れを背負いながら、一歩一歩と進み、まもなく茶店に着いた。

馴染みの大将が、白髪の頭に手拭をひと巻きして、積み立ての山菜をてんぷらにして揚げてくれた。

熱々を天汁に大根おろしを入れたなかにそっと通し、おかずにして、少し遅いめの昼食をとった。

少し眠気が襲ったが、大将の会話が疲れを紛らわしてくれた。

お礼をいって茶店をあとに、そこから一キロ先にある、ホテルに宿をとった。

部屋から見える遠くの山並みは、青く澄んでその上に薄っすらと雪が覆い、絵から出てきたような情景を醸し出していた。

昨日は、あの山の頂にいたことが、うそのように思え黙然と、ルーフに置かれた椅子に体を休めながら、遠くを眺めていた。

二人とも会話はないが思いは同じで、一休みすれば、温泉につかりたいと思っていた。

ここの温泉は湯治客も多く、二人とも、必要以上に肥えたお腹を引き締める意味からも、胃腸に良いと評判の温泉の湯を飲みながら温泉につかりたかったのである。                 

このごろは、山の散策が趣味になっているが、以前のそれはゴルフだった。同好の士が一人減り二人減りし、コンペの継続が出来なくなり自然消滅した。

そして、ジョギングから徐々に軽装登山に変わり、今ではトレッキングに至り究極となった。

それも、年齢が六十に近い今では、無理は即事故に繋がるので慎重に計画行動して、二日間以上の踏破は控えるようになった。

このようにして二人での登攀も後何年出来ることか。

「お客様、殿方のご入浴の時間となりました、どうぞお入り下さいませ」

男女交代で広い浴場を開放していて、そこに浸りながら、疲れと垢を落とした。

浴場から南アルプスが遠くに眺望でき、ガラス越しの観望は、下方は薄っすらと湯気で覆われていたが、眼上は一枚のキャンバスのようだった。

洗い場で体を洗っていると、お腹の出具合に中年を感じ、頭そして鼻毛と白いものが目立つようになって、年齢を感じた。

気持ちだけは、まだ若いつもりだけど、この外形は隠しようがない、また、下半身に較べ上半身の重みに膝が泣いているのか、時々痛みを感じるようになった。

また頬の皮膚の色が秋から冬にかけて肌色に戻っていたのが、日に焼けて赤地味、そのまま地色になり、現場仕事をしているように見える。

所々にシミが出来てきて、瞼も顔の角度により、下がってきているように思えてならない、いやその通りかも。

この現実を、時には思い出し自覚もするが、まだ抜けきらぬ性があって、行動して(いつ)にならなくなって気づくことがある。

そんなことを頭の中で考えながら、鏡の前で時を過ごしすぎ、冷えた体を浴槽につけ、ふと手を見ると昔のような、柔らかな膨らみはなくなり、ごわごわして節くれだち皴が大きく膨らんで、年月を感じた。

山登りは、趣味と健康を兼ねた一石二鳥で良いのだけれど、年のせいか、後に緒を引くようになって、熟睡しても眠い、疲れが翌々日に出るようになってきた。

だが現実を考えたとき、晴耕雨読の生活が願望の私だけれど、今の一人身だと出来るかもしれないのだが、妻とのことを精算しなければ前には進まないのだ。

        ※

君子と別れてから、三年余り過ぎた、出て行ったきり音信不通になっていて、何処にいるか、行方は検討もつかなかった。

私が手を加えたわけではなかったが、結果的には彼女をこのような行動に駆り立てた主原因は私にあったのかも知れない。

その頃は、主力から外され、落ち込んでいた時期でそのはけ口を妻に求めたのが悪かったのだ。

毎日毎日、口論が絶えなかった。

ある日家に帰ると置手紙があった。

「色々と考えましたが、別居させていただきます、家をでます、探さないで下さい」と書いてあった。

あれから、もう三年あまりが過ぎたこの頃では、一人でいることが当たり前になって、結婚していた事実も忘れている自分に気づくことがある。

だから、君子のことを出来ればそっとそのままにして置いて置きたいが、大人として、そう言うわけにもいかないのである。

ただ居場所が分からない以上、話が前に進まないのだ。

君子が家を空けた頃は、色々考えあぐねた。自分のことを棚に上げ立腹もしたが、次第にそれも泡のように消えて行くと、いつしか悔悟の念も沸いた、それも今はない。

彼女の実家とも音信不通で、何の音沙汰もない。

初めの内は一応事情も説明した、どう取り繕うが、聞く耳を持たなかったので、そのままにしていた。

一度、君子の父が亡くなったとの知らせがあったけれど行かなかった。

それ以来、連絡は途絶えた。

僕の実家の方も、母が昨年亡くなり、父が兄宅に世話になるようになって、実家へは、帰ることもなくなった。

だから今は、たまに唯一の身内である、妹夫婦と連絡を取るだけとなった。

妹夫婦には二人の女の子がいて、一人は大学生でもう一人は高校生になっている。

この住まいに訪ねてくることはないが、今となっては二人の姪っ子が、唯一将来を託せる親戚なのだ。

だから、機会あるごとに妹を通じて小遣いを渡しているが、あまりお礼を言われたことがない。

だから生きている意味を探さなければ、何のための人生かとつくづく考えてしまう。

子供がいたら、その子の為にと言う御旗もあるが、自分のためにと言うのはそれでいい事なのだけれども、どこかすっきりしない。

だから心を充実させようと絵を買った。

これは賢明な考えや行動だったかもしれないと思う。

人との交流が自分の考えを変え、色々な人生があることを学ぶ機会になると思うので、クラブ活動と思って、近頃は、次郎との散策以外に、俳句の会に参加することにした。

一回目は第一日曜日の午後一時から近くの自治会館で行われ、人の作品の鑑賞をさせてもらう、十五人ほどの集まりで力作揃いだ、前途多難に思えたが、主唱者の方から、「初めからうまい人はいないですよ」とのことで励まされ、ぼつぼつと職場での何気ない出来事や、季節の移ろいを素直に書いていくことに心がけているが、なかなか難しい。

野山の散策で感じた自然の移り変わりを言葉にするが、近頃の天候の変化や、季節の異常は、作品を季節外れなものにしているように思えた。

会社や家のことでくよくよ悩むより、老いさらばえて自分の力で何事も出来なくなり、家にも住めず最後は養護老人ホームに世話になるのなら、家も買う必要はない、一番必要なものはお金だけかもしれないと近頃思う。

休日の今日は、昨日からの雨も上がり、急に蒸し暑くなったが、ベランダはすぐに乾くことはなかった。

こんな日は疲れが出て、睡魔が襲う、だから本能に任せ体を横たえ明日からのために体力の温存を図ろうと思いながら、しばし眠る。

(うつつ)していると、次郎から電話が来た。

「今日、夕食一緒しないか」との電話だった。

「この間の、お返しも兼ねて、会食しようと思ってね」

「ああ、すまないね、何処で」

「夕方六時に、花口駅で会おうよ」

「わかった、間違いなく行くよ、じゃ」

受話器を置いて、考え事しながら昼食を忘れていたのを思い出した。

パンと牛乳を飲んで軽く済ます。

昨日の天候と打って変わって昼から晴れて、気持ちのいい夕方になったが、少し湿り気が残っていて、体がべとべとした感じだった。

夕方、シャワーを浴び、そそくさと支度をして、駅に向かった。

西の空は夕焼けで、赤く染まり、余計に心が騒いだ。

花口駅に着くと、既に次郎と奥さんそして息子さんが待っていてくれ、すぐに近くの焼肉店にはいった。

 店内は、休日のことも手伝って、込み合っていたが、予約しておいてくれたので、直ぐに席に着くことが出来た。

「いらっしゃいませ、お客様、セットにされますかそれとも特選にされますか、何のことかさっぱり分からない」

すると、次郎は慣れているのか、適当に注文してくれた。

久しぶりに焼肉を食べたが、いつも一人の食事なので余計に美味しかった。

その後、ビビンバを頂き、満腹のまま、店を後にした。

次郎と息子さんの会話はあまりなかったが、大学に行っているだけに、落ち着いた物言いだった。

彼にとっても、外食はひさしぶりだったようで、よい機会になった、これもリト・グラフのお蔭だ。

リトで、より次郎の家族とも知り合うことが出来て、お互いにこれからも深く、そしてさわやかなお付き合いして行きたいと思っているが、あまり接近しすぎても良くないと思う。

帰宅する頃には、西の空に、星がたくさん輝いていたが、月の光が時々邪魔をして私の心を曇らせた。

         ※

久しぶりに、総務からの依頼で、今度は懸賞付チョコの販売をするので何か良いアイデアがないか聞いてきた。

早速、他社のやり方を研究し独自のアイデアを組み込むことにして四人で討論した。

他社は何個か買わせて、点数を集めさす狡いやり方は眼に余るので、全商品一品で懸賞に応募できるのが良いということと、当選商品を小型化して出来るだけ多くの人に当たるようにすることの二点を提案した。

イメージ的にもエスミの会社の姿勢が消費者に理解されることを願った。

それから、三ヶ月が過ぎいよいよ新聞発表とテレビとラジオによる宣伝がはじまり、それと同時に製造部も生産の増量で戦線恐々となっていた。

発表から一週間が過ぎ続々と応募用紙が送付されてきたが、この前のアンケートのことがあったので、あまり驚かなかった。

締め切りを過ぎても送付されてきたが、部長の裁量で可とした。

最終七万八千通あまりの応募があり、抽選の結果一万名に商品の送付を行うことにした、選ぶのも大変だったが、送付も大仕事だった。

商品は七宝焼きのエスミの文字をあしらった模様の取っての付いたスプーンで、金銀のセットになっており、いつまでも記念に残るものにした。

費用もかかったが、エスミの名が広く知れ渡りいい宣伝になるだろうと思った。

三日かかって、処理を終え発送に廻した。

 よその会社にない家庭的で一味違った社風も顧客に伝えられたらと何時も思っていたので、社長の会社施策の変化も伴ってよい方向に回りだしたような気がした。

それから、一週間ほどしたとき、顧客からお手紙があり、懸賞商品が好評で、ご主人が、すばらしいと褒めておられたとのことだった。

そのような、感謝の手紙が数多く寄せられ、私たちも嬉しくて元気が出た。

また、その時はずれた応募者全員に、挨拶状と割引カードを送り今後のエスミチョコの購入に役立ててもらうことにした。

それが、評判良かったのか結果として、経費はつかったが、商品の販売が好調で増産につながり、売り上げが例年の一・五倍に跳ね上がり、従業員一同驚いていた。

社長のアンケートからヒントを得た懸賞作戦は、総務との連携で大いに会社に貢献したことで、後ほど社長直々、相談室全員に会食の招待を戴いた。

その時、社長から、長年会社のために貢献してきた次郎と僕のことを、相談室に配置した経緯を説明され、重要な会社の顔であるので頑張ってくれるよう、励まされた。

分かっていても、直接言葉を貰うと、新たな自覚が沸いてきて、定年までの時の過ごし方を、考えさせられるものとなった。

会食の後社長と別れ、相談室の四人で喫茶店に入り、コーヒーとケーキを食べながら、色々世間話に花が咲いた、次郎が代表して女性を労ってくれた。

我々もこれ以上の出世はないし、彼女らも縁の下の力持ちだけれども、報いられることが少ないので、喜んでくれたと思う。

あくる日は、総務の連中も社長の接待で盛り上がったと聞いた。

本音は皆食事よりも金一封を期待していたのだけれど、それは十二月のボーナスの時に、反映されて、一律三万円の上乗せになった。

確かに売り上げが向上したが、創業五十数年経っていて設備も老朽化してきていたので、ある程度そちらに振り向けざるを得なかった。

衛生面の充実は製造段階における品質に現れ、今の世代のニーズに沿えて会社の社風にふさわしい形に戻すことが出来たような気がした。

僕の仕事は、販促あがりなので、売り上げばかりに重きを置いていた嫌いがあった。

この相談室に来てからは、全体のことを考えるようになった。

「次郎よ、今までやってきて、こんな良いときあまりなかったよなあ」

「そんだよなあ」

「他社の毒入りチョコの事件のあった時期は売り上げ激減で、人員整理が行われ、若手は助かったが、五十代の人が退社させられたしなあ」

「それを考えれば、今は幸せだよ」

あと一年あまりになった今日、何をすべきかを考えていた時に、キャンペーンや懸賞企画が成功を収め、結局増収に繋がった、今まで、何もしてこなかったのが不思議でならない。

唯一つ良いことがあった、先代社長は、冒険の嫌いな人だった、だからこつこつ型で、平成元年以降のバブル期もチョコ一筋でやってきた、他社が利殖としてゴルフ場経営やホテル経営に投資していたが、自社はそうしなかった。

その時は、営業部門に居た我々は疑問もあったが、その後の経過を見れば明らかだ。

投資に失敗した他社は、勢いを失い、倒産や廃業していった。

わが社は、堅実経営していた結果、無借金経営でいけて社長も従業員も出来るだけ節約に徹してきたし、一人で何役もこなしてきたのが良かった。

 そして、毎週水曜日と日曜日を休みにし、他社と差別化した。

やる気を出せる方法を総務課と社長が検討し、納入先が水曜日休みが多いとのことから、土日の休日から水日の休日に変更になって、今となっては良い効果をもたらしている。

遊び行くのも、平日で空いているし、役所関係の手続が会社を休まなくて出来るので非常に助かっている人が多くいた。

製造部の若手にとっては、家庭サービスが出来て好評だが、我々中年は暇をもてあまし気味だった。

総務の方も、仕事と共に厚生面での従業員への配慮を考えなければならなかった、月に一度第二水曜日に俳句・エッセイ・習字・短説教室を開き教養娯楽の充実を図ってくれた。

 これは好評で、社内の交流が促進し、若者の間に何組かのカップルも出来たし、自分の意外な才能を知り、将来のライフ・ワークにする人も出てきた。

毎回講師を向かえ徐々に定着してからは、同じ講師で一講座専属をお願いし、半年に一回作品の発表を行った。

社長賞と講師賞を設けて大いに満足してもらっていた。

また運動として、ハイキング部とソフトボール部の二部があり、こちらの方は、月一回第三水曜日に行うようにしていた。

併部している人もかなりいたが、健康ブームと相まって多くの参加を得て、社長もハイキングを楽しみにしておられ次の予定を総務によく聞きにこられた。

 ソフトボール部も、年齢がさまざまで昔とった杵づかで頑張っている人から、健康目的の人と初めはそれぞれであったが次第にまとまりだし、この頃ではたまに、日曜日他流試合をするまでになっていた。

 エッセイや短説をやり始めた人の中から、投稿者が徐々に出てきて、社内報にも掲載した、文章の作法が学べたのが良かったのか、言葉遣いが社内的に良くなったと言う意見や、今まで喋らなかった人との会話が増えた。

会社内が団結しているような雰囲気で、相乗効果をもたらし、他人の集まりでなく皆をよく知る機会が出来て、クラブ活動が大いに生かされた。

 総務も大変だが、我々相談室も縁の下の力持ちとして、講師の手配と運動場および、ハイキングコースの下見のお手伝いもさせてもらった。

 僕と次郎は山岳の関係から、ハイキングコースはお手のもので、いつも先頭と殿につき、案内させていただいた。

何が役に立つか分からないもので、日頃の趣味もまんざら捨てたものでないなと思った。

 また、エッセイをやっておられる方が毎回ハイキングの感想を社内報に掲載していただき、それを読んだ人がまたハイキングに参加されるようになった。

徐々に人数が増え、十人前後だったのが、五十人前後になり、毎回盛況だった。

その事から発展して、社長の発案で年に一度十月の日曜日に家族参加でのハイキングが模様され、多くの家族が参加された、お昼のバーベキュウーパーテイーの準備は、総務と相談室でやったがこれは慣れないこともあり、大変疲れた。

 従業員の半分にあたる百五十人あまりの参加と、家族総勢で三百数十人を数えた。

これには社長をはじめ、総務部長もおおいに喜んではいたが、大変さが分かってもらえたようで、次回は、レストランでの食事となる予定だ。

仕事を精一杯してもらい、家族との交流が家庭の平和に繋がればとの考えから、積極的に推進しようとしたが限界を感じた。

総務と相談室の十人余りでは、全員への気配りが出来ないからだ。

出来るだけ自前で行こうとしたが、さすが家族が入れば人数はすごい、これは反省材料になった。 

 家族の中には、子供の学年に応じた家庭同士の交流を希望される方がおられて、今後子育てのアドバイスや助け合いの場を、どうこれから生かして行くかと言う問題も提起された。

 社長のほうから、厚生面での援助が今の会社の予算で可能な範囲を探ってくれるようにと総務に依頼があった。

年に一度の交流であったが、社長には得るものがたくさんあったようだ。

家族や家庭の支えなくして会社は成り立っていかないし、会社の現状や展望を家族の方に知ってもらうことが、定着率につながる。

安心して働いてもらえる環境を、会社や家庭にも持っていければ最高だと思う。

新製品の開発と顧客満足度が会社のモットーである。

多品種少量生産を得意とする当社の利点を生かし小回りを今以上に発揮して、顧客・社員・家族に喜んでいただける様にとの支持も追加であった。

早速、製造部との打ち合わせが行われ、今後の対応やアイデアの提案がなされた。

他社の製品施策を研究していると消費者を騙す手法がみられた。

その一つが、最初は良質の材料を使用するが、売れ出すとすぐに材料の品質を落としたり、量を減らしたりして、稼ごうとする傾向が見られた。

賢い消費者を騙しては決して徳にはならないし、客の購買意欲をそぐので売り上げの低下につながり長い目で見たとき、会社の為に決してならない。

その事から、顧客を裏切らないことが最終的には売り上げの向上につながるし、利益は顧客満足度の伸びにより、徐々に上がるものと結論した。

売れるからと言って、手を抜く業者の多いことが検証で確かめられ、相談室にもこの結果が寄せられたが、我々が抱いていたことが再確認できて良かったと思った。

そして、お客様の要望のチョコ製品の開発のために色々アイデアの提案募集要項を、チョコの製品に封入して発売した。

お客様が、どのような商品を望まれているかと言う調査は、今までしてこなかった。

ただこういう物を作れば売れると言う確信で作っていたが、一歩前に踏み出したような気がした。

自分の考えが一番だと誰もが思っているが、実にこの世の中は生まれも違えば、育った環境も違う、それにより人それぞれに考えや物の見方が違った。

提案書の返事を読むにつけ、カルチャーショックを受けた。

今これが正しいと思えても、先では間違いだと思えることも多々あることに気付いた。

多種多様の提案は、素人だからでき、会社の常識にどっぷり浸かっているものには、考えもつかない素晴らしいアイデアがたくさん集まった。

この提案を総務と製造部そして相談室の三者で製品化することになったが、初めは、製造部からかなりの抵抗もあった。

と言うのは、製造ラインの変更は時間のロスだし、今ある注文の納期の遅れにつながるとの指摘もあった。

そこを何とかクリアすることが製造部の責任だと説得し、お客様に喜ばれ、売り上げの向上につながればこれほど良いことはないとの思いから、話し合いは徹夜したこともあった。

苦労の末、いくつかが製品化され、販売の向上に寄与している。

我々の思考など取るに足らないものだと言うことを知ると共に、会社が商品を作っているのでなく、「お客様が商品を作らせて下さっているのだ」、という自覚を持ち我々は唯、製造の手助けをしているだけなのだと言う考えに究極近づいた。

だから自然に売れるのである、無理やり売ろうとする必要がなくなるのだ。

このことは、チョコに限ったものでなく何事にも当てはまるような気がした。

         ※

 ようとして君子の所在はつかめなかった。

離婚していない以上、未練はないが、何とかしなければと、今日まで来た。

嫌いで一緒になったわけではないが、日々色々あり過ぎ、今日のようになった、お互い疲れすぎていたのだと思う。

だが、他人なら遠慮するところが、その一線を越えてしまい腹のそこから何のセイブも無しに言った言葉が、たまりにたまり、堰が崩壊したのだと後で気付いた。

悲しい性なのだけれど、謝りようがない。

 それと三年もたち、彼女にもひょっとすれば安らぎの家庭が出来ているかも知れなし、今更よりを戻したところで、歳月の溝は埋めがたいと思うので、今は分かれようと思っている。

 人に話したところで分かってもらえるような問題ではない。

心に終いながら今日まで来たが、後何年この問題と対峙しなければならないのか。

会社の顧客相談室にいて、さまざまな問題を解決してきたが、この難問だけは、今以上に酷に思えた。

君子の妹が近くに嫁いできているので、久し振りに電話をしてみたが、一度北海道から電話があり、「迷惑掛けてすまない」と言っていたそうだけれど、正確な場所や電話は言わなかったそうだ。

妹も、姉がいる時は何度か尋ねては来ていたが、いなくなってからは、姉から事情を聞かされていると見えて、あまり良い返答をくれなかった。

それ以後は、連絡を取り合わなくなっていた。

しかし、三年も経つと恨みや違和感がなくなり、電話の会話から前ほどの言葉の端端からのひっかかりはなくなっていた。

「今度姉さんから電話がかかったら、僕が一度会いたいので連絡して欲しと言っていたことを」妹から姉に伝えてほしいと伝えて電話を置いた。

 会社一辺倒だった私も、今は相談室に移り、落ち着いた生活を送るようになって全体を考えられるようになった。

もし子供がいても、妻まかせになっていたと思う。

 自分に余裕がなかった時から較べ、今は彼女とも冷静に話し合えるような気がする。

それから日にちが経過したが、連絡はなかった。

唯、話の様子から一人身でいることだけは確かだった。

もし死んでいたら、私が殺したようなものだと心の中で葛藤していたので、やはり彼女は私より強かったのだと感心したり安心もした。

だが一方で、何故辛抱してくれなかったと想う。

今は独身生活にも慣れ、そのパターンで何事も進んでいるので邪魔されることもないし、いちいちやる事に、注意や意見される事もない。

気が楽なのだけれど、お互いに話し合ってから、結論を出そうと思っている。

         ※

 湯船につかりうとうとしていると、はるか昔に返って幼いときの思い出が甦ってきた。

 終戦から四年過ぎた時、私は誕生した。

妹が生まれた昭和二十八年は、終戦後の食糧事情も少し良くなっていたが、虚弱児だったそうだ、今はそんな面影はなく丸々となっている。

終戦後の大変な時期だが、父も公務員だったことや家が畑だけはしていたので、あまり不自由な生活ではなく、ごく平均的な生活が送れ、男子一人だったこともあり大事に育てられた。

 物心がつき家の周りで遊びだした頃には、どろどろと子供の集団ができ、友人はたくさん出来て不自由はなかった。

 ただ、何に付けても競争で、成績は重要な権力闘争の道具であった。

 今のようにテレビやゲームなどない時代だから、何でも手作りだから器用になった。

 竹を藪から切り出し、節を鉈で落としつるつるさせて、50センチ位に切断し真ん中を二つに割り、前のほうから十センチ位のところに切り込みを入れ、火であぶり曲げると、立派な竹スキーが出来た。

また、木で出来た糸巻きの両方の山に切り込みを入れ歯車のようにしてその糸巻きの真ん中に輪ゴムを通し片側を五センチ位に切った割り箸に通し止め、もう片方には長い割り箸を輪ゴムに通し糸巻きを持ちながら割り箸を巻いてゆくと段々絞られゴムが巻き戻そうとするようになったとき、道路に置くと、回転しながら活きよい良く遠くまで走っていった。

今と違い凧揚げもしたが、竹を割り細くなるまで何度も切って最後は、ナイフで形を整え、骨組みを作りそれに新聞紙をはり、左右に長い足を付けた。

今のように市販の凧はその頃なかったように思ったが、それでも良く浮かんでくれ、我ながら器用だった。

紙鉄砲も、林に生えている矢竹を切ってきて、長さ二十センチぐらいで切り、中の節をとり、中を空洞にしてから、その穴に入る棒を作り新聞紙を紙で濡らし

丸くして一つ目の玉を棒で空洞に押し込み、次に二つ目の紙で作った玉を押し込むと玉と玉の間の空気が圧縮し、最初に入れた玉が飛び出し、これも中々面白かった。

今考えると、いろんな知恵が湧いて、何も買わなくても工夫しながら遊べたとつくづく思った。

次第に近代化して行き、自転車に原動機を付けた乗り物が出来、また近所には車がなく、牛が動力であった。

その内、よりスピードの出る田舎の乗り物として耕運機が登場、荷台に人や荷物を載せるようになり、便利になった。

道路も、最初狭く雨が降れば道に穴ぼこが出来ていたが、そのうち段々拡張され、はじめ砂利がひかれた。

その後アスファルト舗装されて、靴も汚れたり痛まなくなった。

バスは、最初二十人も乗れば満員で車体は銀色の図体は大きいがは狭かった。

段々と改良され、ふと気付いた時には、箱型で五十人以上の人が乗車できる乗り物になっていた。

最初の頃の洗濯機は、手で二つの弾力のあるゴムのあいだに洗濯の済んだ衣類を少しずつ入れて絞っていたが、その内脱水機が付いた二層式洗濯機ができ、洗濯の出来た衣類を脱水機に入れ閉めてボタンを押すと回転して遠心力で絞るようになったが、今ではその機能は受け継がれたが一層で、何もしなくて最初にボタンを一度押すだけで、洗濯・脱水・乾燥までしてくれるようになって、隔世の感がある。

冷蔵庫も最初のころは木製で、中に氷を入れて冷やしていたが、いつしか電気冷蔵庫になり、概観が鉄板で中に冷却機能が付いて氷を入れなくても冷えるようになって、中で二―三センチ四方の氷の塊を作ることが出来る製氷機能もついたので氷屋さんから氷を買わなくて済むようになった。

私が中学生のころ、東京オリンピックがあり、我が家にもテレビがついた。

その頃はまだ白黒テレビであった。

見過ぎて、それまでラジオで想像力が養われていたのが鈍りだし眼もまた少し悪くなった。

嗜好物と同じで一度味あうと止められなくなってしまった。

その結果、眼は仮性近視から今では立派な近視になってしまった。

幼い時、家に電話は無く、知り合いに近所の電話番号を教えておいて、何か用事あるとき、その近所の電話のある家にしてもらい、そこから歩いて知らにきてもらった。

今考えると電話のある家は迷惑な話だが、その頃は普通だった。

それから何年かして我が家にも電話がついたが、初めは怖くてなかなかでられなかった。

今は子供まで携帯電話を持っていて、時代の様変わりを思う。

水道も山から勝手に竹の管で家庭にひいていたが、その後、村の共同水源地から配管されるようになり、家庭の燃料は柴や山木からプロパンガスに変わり、それまで学校の放課後、山に焚き火の材料になる木の枝を取りに行かされたが、それもしなくてよくなった。

そんな昔のことを黙念と考えていたら、湯が冷えてきたので、もう一度湯を加熱し、ゆっくり浸かって風呂から上がった。

終戦後発展途上から、成熟期を向かえ、手作りからお金を出せばなんでも買える時代になり、創造力の欠如をもたらした。

部下が居ないに等しい立場では何も出来ないので、何か今後の会社を支えてくれる社員のために貢献できるものはないか考えた。

翌日会社の休み時間に喫煙室にいる次郎に、

「今から俺たち、後進に何か出来ることあると思うか」

「謙吾よ、突拍子になにを言ってるんだ」

「いや、この間から考えていたんだけれど、俺たちはこのまま、ハイさようならで退職していいのかな」

「そりゃそうだな、こうなるまで苦労したし、小売店との取引ノウハウ等を、教えてあげれば、立腹しなくて済むし、今、流行りの切れたりしなくていけるからな」

そこで謙吾は次郎と話しながら今までの対小売店やスーパーのバイヤーへの説話法を文書化することにした。

一つ目は、文句の多い小売スーパーのオーナーは少しでも儲けようと、とにかく値切りまくる、そしてそれを拒否すると、品物の撤去をせまり少しでも譲歩させようとするが、ひたすら低姿勢で、これ以上まけられないことを強調すれば最後は折れてくる。

と言うのは、店にとって我が社のチョコは売れ筋商品であることを知っているからである。

要するに、後輩社員に社の商品の優秀さを知ってもらうことが販促の自信に繋がるのである。

二つ目は、店への訪問時間帯であるが、いつでも行くのではなく、開店と同時に行き、少しで自社製品を前に綺麗に置かして貰うように、店員さんにお願いし、それと同時にお手伝いすることが販促にとって大事な仕事だ。

三つ目は、午後三時以降に店頭でデモンストレーションを行って、少しでも社の商品を顧客の皆様に知っていただくことが非常に大事だ。

店の人に任せきりで、商品の納入だけするようでは、売り上げは店せ次第ということになるので、納入から販売までお手伝いしながら、その店舗のやり方で何が良くて、何が足りないかを把握して、その足りない部分をどのように埋めるか、店長やオーナーと、気を悪くさせないようにそれとなく示唆することも大事な仕事だ。

その為には、つね日頃から店長やオーナーそして店員の人と親しくして、常に顔を出すことが大切だ。

四つ目は、他社の売れ行きや商品のチェックを欠かさないこと、と言うのは、時代と共に視覚や味覚が変わるので、顧客にとってどのような商品を欲しているかを知ることが、売り上げの最上の情報だからだ。

わが社に足りなかったのは、漫然とは言わないけれど、私も含めて既存商品が売れているからと言って、その上に甘えてきた嫌いがある。

それでは良くないことも、この間のアンケート調査で分かった。

顧客は常に個性を求めていて、自分にあった食べ物の要求に我々生産者が応えてゆくことが、生産拡大し売れ行きの向上に繋がる。

要するに、顧客に満足はない、一時である。

この原則を肝に銘じ、顧客の心を知ることが、販促の鉄則でそれを心がけていれば、道から外れることはない。

この四つの項目を文章にして総務に届けることにした。

あまり上手に書けなかったが、

「何とか仕上げ、後進の販促営業の手助けになってくれればと思い書いてみました」と言って総務に届けた。

それから、幾日かして、社長室に来るように、東尾部長から連絡があり行ったところ、 

「やっ、ご苦労さん」

「まあそこに、座って」

「この間、総務に届けてくれた、販促の鉄則を僕も読んで涙こぼれたよ」

「いやっ、ありがとうございます、社長からそんな勿体ないお言葉恐れ入ります」

「いやいや、こちらこそ、お礼いわせてもらうよ」

「社の製品に絶対の自信と揺るぎのない販促があれば、わが社は安泰だと思う、君らがそこまで考えていてくれたことが、嬉しいのだよ」

「これから入社する社員や今いる若手や中堅の道標になる良い教本と思うよ、本当にありがとう」

これからも、また良い意見を出してくれるよう依頼され社長室を退席した。

久しぶりに、二人は清清しい気分になったが、なぜもっと早く気付かなかったかと思いながら、相談室に帰ってきた。

考えてみれば、その時その時を必死で来たので、余裕がなかったのである、だからその場しのぎをしていたように思う。

今だから、顧客からの苦情や意見を聞いて色々考えさせられるが、その頃は、店に置いて貰うのが精一杯で、本当に大事な顧客を忘れていたような気がする。

今の若手もそうだと思うと、総務に言って一度講演をやらせて貰えないか頼もうという話になった。

総務に言ったところ、快諾を得て、月の中頃に全国十箇所で講演することになった。

ぼくと次郎は「販促四つの鉄則」を二項目ずつ分担し講演、その後質疑応答の時間を設けた。

日本全国の各会場とも盛況で、後輩の熱心な聴衆に感心した。

三十年前は営業所もなく、旅館に泊まりながらの営業だったので、営業所の建物を見ると涙がこぼれた。

地域に特性があり、営業時間帯も色々なので彼らの都合に合わせて講演した。

四国や九州は温和で、時間的感覚が少しゆったりとしていた。

それに較べて、関西地方から、中国地方は何につけてもテキパキしている様な気がした。

また北陸は広くて地域差があり、営業も大変だと思った。

東北地方は風土の違いか人の細やかさが顕著であった。 

さすがに北海道だけは、行けなくて、今までのビデオを送り参考にしてもらった。

反響は大きいものがあった、今まで場当たりにしていた営業を見直し、売り上げの分析と、その地域特性からくる嗜好傾向を把握し他社製品の売り上げも考慮して、各地特色ある新製品の開発に力を入れるようになった。

その結果各営業所の売り上げが徐々に伸びてきたがその分、製造部に負担が掛かった。

社長が工場の増設を検討するようになり、今ある関東から、関西と東北の二箇所につくることになった。

輸送コストの削減と迅速な製品の納入が、良い結果をもたらすと思う。

土地の収得から、建設と多くの事業経費で大変だと思うと、僕らが今やっている販促推進の成果が途中で崩れないかと気をやむ日々が続いた。 

企業は、常に前向きが大事だし本業を外れていなければ、そう急激な変化はないが、設備投資しすぎると、利潤が下がり下手すれば倒産も視野に入れねばならなくなる。

幸いなことに、当社は無借金経営で、設備投資も金融機関からの借り入れがないので、資産の目減りがあっても、結果的には固定資産が増えるのでそう影響はないらしい。

工場の増設は二年後になるので、その頃は会社に居ないと思いながら、どの一つを取っても入社した頃から較べれば雲泥の差がある。一番大きかったのは、従業員数だ。

入社当時は確か五十人に満たなかったように思う。

またパートのおばさんが多く、正規の社員はごく少なかったような気がした。

それが今では五倍の人数になり、工場が完成する二年後にはおそらく三百五十人前後で七倍にはなるだろう。

 やっと厚生面も整いつつあった。

考えてみれば、何もかもが充実とはいかないけれど、そこそこになるまで五十年はかかるのかなと思った。

 営業の統括本部は総務にあったが、営業部を独立さすので次郎と謙吾に部長と副部長の打診があったが断った。

日本全国をまわったとき、東北の仙台営業所長の赤嶺君が私たちとの考え方とよく似ていて、実行されていたので将来性を考え推薦した。

 その結果、新営業部長に赤嶺大二郎君が就任し、早速相談室に挨拶に来てくれたので、「今後の会社の行く末は君の双肩にかかっているので、宜しく頼む」と訓辞した。

ただ彼は本社育ちでないので、決断において、東尾部長に臆するところがあってはいけないと思い、社長室に部長二人を呼び社長から一言、言ってもらった。

「東尾君と赤嶺君は先輩後輩ではあるけれど、今日から部長としては立場が同じなので遠慮することなく、会社にとって良いと思うことは発言に躊躇しないで欲しい」と訓示してもらった。

 これが誰の差し金かは、誰にも知られなかった。

営業部に十人あまりのスタッフが新しく配置され、日本全国を十ブロックにして、その各ブロックに長を設け責任者が任命された。

 また工場の建設に伴い、新設工場の利便性やアイデアを社内から募集することになり、東尾部長は、ライバルが出来たこともあって大いに張りきっていた。

アンケートの整理をお手伝いしたが、色々なアイデアがあって、感心した。

 その一つが、配送車の看板化であった、今まであまり宣伝していなかったので車のボディーに絵を書くアイデアは即採用となった。

また、工場内の厚生室の充実では、お昼に仮眠室を作り、睡眠不足に因る事故を防ぐようにしたらと言う意見があり、リラクゼーションの一環として、数台のマッサージ器と簡易寝台を購入することにした。

良い意見を取り入れ、今後五十年間の為によりよい準備をした。

工場長には本社の二人が抜擢され、それどれ東北は宮城県の仙台市に関西は兵庫県の三木市に準備室を設けるため出発した。

会社が大きくなりつつあったが考えてみると、役員でもない我々二人の意見が良く通り、会社の施策に反映され、本当に嬉しく思う反面、責任も感じた。

これも社長の理解があってのことなので、時期的に良かったのかと思う。

         ※

私が妻と知り合ったのは、次郎と違って社内婚に近かった。

営業で全国を販促していて、名古屋に行ったとき、その頃できたばかりの営業所の事務社員をしていたのが君子だった。

高校を出て、ある証券会社の事務員をしていたが、過労のため退職し失業中に新聞の募集欄でわが社の募集を見て応募してきたのが最初で、私が販促のため度々訪れ次第に親しくなっていった。

そして、彼女が二十五歳の時、縁あって結婚となった。

最初子供が出来るまでと言って働いてもらっていたが、結婚して二十五年が過ぎ、子供も出来なかったが、ゆっくりしてはと話し合い退職させ家にいるようになった。

私の方も、恥ずかしいが、資料編纂室に配置換えになり、現役からの撤退となった。

でもそれは妻とのトラブルの始まりだった。

閑職だけに、僕が考えを変えればなんでもないことなのだが、虚栄心が邪魔をして、毎日が苦痛の連続だった。

会社としては第一線で企業戦士と働いてきたので、この辺でゆっくりしてもらい、今後の会社のために助言を貰いたいと思っているのだが、その真意が読めないまま、年月が経過した。

家に帰れば、妻に愚痴をこぼし、これが妻の負担になったと思う。

食事に対する不満、服装に対する不満、今考えればなんでもないことが、その時は、脱ぐ得ぬ闇に紛れ込んだ悲しい一時期だった。

毎日がストレスになり、そして妻の家出と言う結果になってしまった、そのことにより今までの自分の性格がよく見えて反省もするようになった。

また、次郎との付き合いも、今まで以上に蜜になり、同期入社でお互いに歩んできた道が同じなので気心が知れて、気弱になった時、よく助けてもらった。

大学時代にお互い山岳部に所属していたこともあり、共通の趣味である山岳登攀も今では健康にも精神的にも良い影響を与えたのか、その後の会社へのアドバイスに繋がったような気がする。

今では、会社の厚生面でのリーダー役としてお手伝いできるようになった。

あのまま突っ走っていたら、今頃まだ、感情の起伏の激しい性格だったと思う。

この頃は、温厚とまで行かないが、あまり直ぐには腹がたたなくなった。

歳のせいだと思うが、妻の家出はショックが大きすぎたことも影響していると思う。

家庭を壊してまでも、仕事をすることの意味はないということを、妻が出てから判ったのである。

それと、妻が感じたように言葉に出さなくても、周囲の人に良い影響を与えていなかったかも知れない。

それは、考えると恐ろしい。

自分に対する他人のイメージは、一回の言論や態度で決まり将来を左右する時があるので、注意が必要だが、私の場合それが顕著すぎたので、非常に悲惨な結末となっていた。

しかし、年月をかければ修正出来ることもあると思い、そのように努力するようにしてきた。

一時の感情に走り言動を吐くより、感情の高まりを抑え時の過ぎ去るのを待つ事の大事さを知ったのはつい最近のことだった。

過ぎてしまえば何でもないことや、思い出せば感情の起伏の増すもこともあるが、決してそのような時に冷静さを欠いた状態で行動しては、結果として八割がた損出や禍根を残すように思う。

それと人が嘆くほど世の中捨てたものではない、捨てる神あれば拾う神ありで、前向きで頑張っていれば助けてくれるようになっている。

一生懸命何事につけ頑張っていれば、人は見ていて何時か報われるときが来るので、影日向なく努力することが大事だと思った。

だけれど、我慢出来ない時もある。

不思議と時がたてば、何でもないことのほうが多くて、言わなくて良かったと思うし、もし言動を吐いてしまえばそこから、反省が芽生える、そして言動が恥ずかしく思えるようになる。

こうして一つずつ積み重ねた経験を態度にすることの大切さを、若い人に早く知って欲しいと思う。

そんなことを考えながら、うつらうつらしていると、事務のくーちゃんが、お茶を入れてくれたので、終になったが、そんな今の自分でも、まだ感情の起伏がある。

        ※

 新工場も着々と建設が進み外観は完成しつつあった。

 総務部長と一緒に視察を命じられ、赴いた関西工場は、本社工場より規模が大きいのと、緑が多く環境の良さに驚いた。

 内部は機械の設置や原料の貯蔵塔がこれからのようだった。

 工場長の松井君も単身赴任でいずれは、工場の横に出来る社宅に居住するとのことだった。

 ここから阪神間や九州、四国へは高速網が充実しているので、今までの東京から配送と一日は違ってくるので、製品の信頼性が良くなると思われた。

 午後からは、近くのスーパーや小売店をまわり、久しぶりでオーナーや店長に会えて、親しく歓談させて頂き、関東から土産に持っていった新製品のチョコクッキーが好評だった。

 今後の工場新設の紹介と取引の増大をお願いして、その日の夕方帰社した。

 丸二日の強行日程であったが、今後の参考になった。

 次郎は社長と東北工場の視察に同行し、まだ帰社してはいなかった。

 くーちゃんとまーちゃんに土産を渡し、久しぶりに早く我が家に帰った。

 やはり歳には勝てないのか、五十九歳にもなると疲れが翌日と言わず直ぐにやってきた。

 仕事している時は、気が張っているのか、あまり疲れないが、ベッドに横たわると直ぐに睡魔に襲われ、気が付けば午前三時になっていて、部屋の明かりが皓々としたままだった。

 周りが暗いだけに余計に明るく感じた。

 着替えを済ませ、布団にもぐると不思議に眼がさえて眠れず、新工場のことが頭をもたげた。

と言うのは、次郎と僕の意見が少しは反映された結果売り上げに繋がり、工場の増設になったとの自負があって、内心嬉しかった。

 社長もその事は意識されているのか判らないが、次郎と僕を大事にして下さることは、二人にとって本当にありがたかったし、今まで全国を販促した時の知識や経験は、無駄ではない証明になった。

         ※

三月で二人とも退職と思っていたところ、社長に呼ばれ役員待遇で相談役の委嘱があって、これまでの貢献が認められ、今日の結果となったのだけれど、嬉しい反面これからのことを思うと、少し心が曇った。

何とか職責を果たし、悠々自適の生活が始まると思っていたところへのお話であったので、最初は戸惑った。 

「これからも、会社内の改善と商品の開発および経営全般への具申、そして期待している旨の」言葉を頂いた。

個室を与えて貰い、両袖机にゆったりとした背もたれの付いた皮の椅子に座ったが落ち着かなかった。

 そんなある日の朝出勤しようとした時、電話のベルが鳴った、それは君子からだった。

「今どこにいるのや」

「北海道なの」

「今はどうしているの」

ホテルに勤めていてやはり一人とのことだったが、とにかく帰ってきて話し合って結論をだそうと言うことになり、それから三日して君子は帰ってきた。

 やつれた様子もなく、以前よりふっくらとしていて安心したが、彼女なりに結論を出していたが、私の会社での地位や今の人間性をみて、以前の自分と変わったことを彼女も知り、私の中に彼女へ懺悔の気持ちも合わさって、君子次第と決めた。

 それから、彼女は今も台所に立っている。

                〈了〉


                  

 

    

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